今日からゴールデンウイーク後半戦ですね。私は、プチ旅に行ってきました。場所は、わたらせ渓谷鉄道です。群馬県の桐生(きりゅう)から、栃木県の間藤(まとう)まで、渡良瀬川沿いを走る路線です。トロッコ列車が観光列車として走っており、今日はすべてのトロッコ列車が満席でした。
美しい景色を楽しんだのですが、もう一つの目的がありました。わたらせ渓谷鉄道は、国鉄・JR時代は「足尾(あしお)線」として運行されていました。私が中学生の頃に、足尾駅で切符を紛失してしまい、駅員からは、キセルの疑いをかけられた苦い記憶がありました。結局ポケットにありました。(笑)
「足尾銅山」を聞いたことがありますか。足尾は、江戸時代から昭和にかけて、約400年にわたって「銅山のまち」として栄えていたのです。1610年に銅山が発見されると、幕府の管轄下におかれます。多くの人たちが集まり、江戸の中期には、千軒の家があったとされています。
明治時代になると、機械による技術向上や、設備の導入で生産量を急速に伸ばしました。明治二十年代には日本の銅の40%を産出する日本一の銅山となりました。富国強兵や、世界大戦後の高度成長期など、日本の近代化を進める日本産業の礎の一つとなったのです。
しかし、足尾銅山には、光だけでなく影の部分もありました。私が中学時代の現代国語の教師の夏休みの課題が、社会派の小説を多く書いた城山三郎さんの「辛酸(しんさん)田中正造と足尾鉱毒事件」です。そう、影の部分は、銅山から排出された、「鉱害」が、人や自然環境を壊していったことです。
足尾銅山の鉱毒で甚大な被害を受け、反対運動の急先鋒となった谷中村(やなかむら)は、絶体絶命に危機にありました。鉱山の資本家と結託した政府が、村の土地を買収し、遊水池として沈めようとしていたのです。反対運動の指導者、田中正造は、国会議員でしたが、村を守るため、政治権力に法廷での対決を挑みます。しかし、それは苦難に満ちた闘いで、国は全く動かず、田中正造は、天皇に直訴するも通じません。
こうして、足尾銅山鉱毒事件は、日本最初の公害闘争となったのです。その後、環境問題が取り上げられるようになりました。「水俣病」は、熊本県水俣湾周辺の化学工場などから海に排出された水銀に汚染された魚を長期間、日曜的に食べたことによる中毒です。「イタイイタイ病」は、岐阜県神岡鉱山から排出されたカドミウム汚染です。
令和の時代なら、環境が最優先で、開発が進められるようになりましたが、昭和以前は、経済を優先することに、多くの政治家は、疑問すら思わなかったのです。
皆さんは、わたらせ渓谷鉄道のトロッコ列車の観光を考えたら、必ず、足尾銅山に寄ってください。ただし、観光施設では、あまり影の部分は見えてきませんね。「足尾銅山を世界遺産に!」の活動が行われています。私見ですが、世界遺産になるには、「ここで400年も銅を産出したんだ」だけではダメです。負の遺産にもスポットを当てて、環境問題にまで巻き込んだ、日本で最初のまちというフレームでアピールしてもらいたいですね。
足尾銅山は、昭和48年に閉山となりました。掘られた坑道の長さは、東京→博多間に匹敵します。閉山から、50年以上が過ぎているので、わたらせの自然は、見事に美しく復活しています。