定年お疲れさまでした

私の元会社の仲間が、1月末を持って61歳の定年を迎えました。しばらくは、嘱託社員として仕事を続けるとのことですが、定年はサラリーマン人生の1つの区切りです。世の中の流れとしては、65歳もしくは70歳まで仕事は継続する時代となりましたが、学卒で定年まで1つの会社を全うすることは、本当に凄いことだと思っています。

 

私のまわりの同年代で、定年まで仕事を続けた人は、たった2人しかいません。今の若者が、定年まで1つの会社で務めることはほとんどないのかもしれませんね。生き方の多様性の中に、「仕事を選ぶ」という要素は大きいです。

 

定年を迎えた彼の話をします。保育園ホワイトきゃんばすにも何度も足を運んでくれ、酒を飲みかわす朋友です。(笑)

 

1986年4月に入社した彼は、配属先が神戸の本社となります。当時は、福利厚生が整っておらず、埼玉在住の彼は、会社都合の辞令にもかかわらず、引っ越し費用も家賃も自費となります。家賃38,000円のボロアパートでの生活がスタートしました。そして、初任給でSONYの当時の最上級のビデオデッキを購入します。しかし、ひと月後に空き巣に入られ、ビデオデッキを盗まれてしまいます。その後、阪神淡路大震災があったのですが、このボロアパートは跡形もなく残っていなかったようです。

 

入社4年後の1990年に東京支店配属となった彼は、ずっと事務職として勤務します。会社の制度として、管理職になるには、管理職試験に合格しなければなりません。40歳の時に、彼は管理職試験に合格します。しかし、当時管理部門には、管理職のポストが埋まっていて、「お前は管理職試験に合格したから事務職に置いておくわけにはいかねえんだ」と当時の支店長から、現場経験なしの営業職に異動させられます。

 

私は、ずっと営業の仕事をしていたのですが、この人事に「どうして?管理部門を仕切る人事にしないの?」と、社員の育成よりも、組織の都合による人事に、彼の仕事人生は180度変わってしまいます。次第に彼は、メンタル的に追い込まれてしまいます。

 

約3週間仕事を休むことになります。そして、4月に仕事を復帰した際に、会社が利益確保のためにショッピングセンター専任の営業部門を作りました。そこを私が任され、彼と同じチームとして働くことになったのです。

 

彼と同じ部署で仕事をするのは初めてだったのですが、すぐに自分の営業スタイルを作り上げていきました。彼が担当するグループの売上が、右肩上がりに増えていき、得意先の信頼を大きなものにしていったのです。百貨店と量販店の需要の違いもあり、同じものを販売していては、会社のブランド力も低下してしまうので、目玉になる新商品を作ったのですが、そのネーミング「ハッピーパーティー」は、彼が考えました。いまでも、量販店のロングセラー商品です。

 

そして、営業部門に異動してから14年後、事務職に復帰し、定年間近の昨年4月から再び営業部門に異動します。組織ですので、会社都合での人事異動はやむないところですが、彼の会社人生は、そんな会社都合人事に翻弄された38年間だったのです。

 

でも、仕事をしながら、彼は世界中を旅する趣味を実践してきました。人生を大いに楽しんできたのです。定年退職の日には、入社時の社員証の「若い自分」を眺めながら、ひとりウイスキーを傾けたそうです。

 

バレンタイン・ホワイトデーと今は、忙しい時期ですので、落ち着いたら、彼とじっくり酒を呑みかわします。「おもいで」を語ることは、人生の幸福の一つです。今は、心から、「お疲れさまでした。あなたは、立派な仕事をしてきました」と言いたいですね。