屋上のマルベリー(桑の実)ですが、ピークは終わったものの、まだまだ収穫が続きます。子どもたちのお腹に入る分は、さすがに、毎日続くと飽きてくるので、集まったマルベリーは、冷凍にしています。来週の寺子屋で「マルベリージャム」を作ります。保育園の冷凍庫は、マルベリーでいっぱいになってきました。
先日、保幼小連絡協議会で、小学校1年の担任と話をしたこともあって、まじめに「教育」のことを考えてみます。まずは、アクティブラーニングと言われる「対話」型の授業について、ある人がこんなことを言っています。「対話」とは、「語りかけ」があって、それに応える形で始まるのが対話であり、一緒に考えてくれませんかという、相手への敬意がその言葉に含まれていなければならないといいます。
よく、対話を演出しながら「教師が考える答え」になるように、子どもたちを誘導する先生がいますが、「対話は、他人と同じ考え、同じ気持ちになるために試みられるものではない。語り合えば語り合うほど他人と自分の違いがより微細に分かるようになること。それが対話だ」とその人は断言します。
まさに、多様性を子どもたちが対話の中で理解していくことが、大事なのですね。
「こういう生き方もありうる、こんな価値観もあるというふうに、子どもたちの生き方の軸となるものの多様さを教師が自らの背で示す。あるいは過去の人物に託して語る。そうすことで子どもたちの将来の可能性の幅を拡げるところに教育の意味はある」と、その人は言うのです。
今の価値観で考えれば、当たり前のことなのかもしれませんが、学校の多くが、子どもたちに「多くを求めながら同時に多くの規制をかけている」状況です。子どもたちは、濃霧の中にいるようで、自分の「方向感覚」が見失われてしまいますね。
「教育」の基本は、「教えて育てる」のではなく、子どもたちが「勝手に育つ」ような場を開いておくことが大事なのかもしれません。どんなささやかなものであってもいい、何か一つの芯ができるまで、とことん歩ませ、あとは放っておく、そんな場を用意できることで、子どもたちの「方向感覚」が、きっと研ぎ澄まされるのでしょう。
保育園の子どもたちが、自分でやりたいことを集中して遊んでいる姿は、まさに、自分の「方向感覚」を見失ってはいません。そこへ、良かれと思って「あーしろ」「こーしろ」と言われると、子どもは迷ってしまうのです。
あらためて、大人の私たちは「見守る」ことが大事になってくるのです。