「ゆりかご後」からの人生

昨日は、卒園式終了後に職員で打ち上げです。卒園式の感動を共有し、酔った園長は、卒園式の映像を見ながら、あらためて感動し、すぐに寝てしまいました。(笑)

 

さて、2007年5月に、熊本市の慈恵病院に「こうのとりのゆりかご」と呼ばれる赤ちゃんポストが開設されました。これまでに、159人が預けられました。そして、この春、159人分の1人として、高校を卒業した「ぼく」の話です。

 

熊本県内では、2005年から2006年にかけて、乳児の置き去りや、出産後に放置して殺害する事件が相次ぎました。「なぜ救えなかったのか」と、産婦人科で当時の慈恵病院の理事長だった蓮田さんが、視察したドイツの赤ちゃんポスト「ベビークラッペ」を参考に、日本版赤ちゃんポストを作ろうと決意し、市保健所に申し出ます。

 

しかし、世間の反発は大きく「安易な子捨てを助長する」と言われます。それでも、2007年4月に熊本市は子どもの安全確保などを条件にポストの設置を許可します。当時の市長は、「ギリギリまで悩んだ。最後は『救われる命があるのなら』と願いを込めて決断した」と話します。

 

「ぼく」は、赤ちゃんではなく、すでに身長1メートル体重14キロの3歳児でした。すぐに、児童相談所に移され、熊本市内でお好み焼き店を営んでいた夫妻の「里子」に迎えられます。

 

3歳児だった「ぼく」は、「ゆりかご以前」のことをおぼろげに覚えていたようですが、実の親の情報は、市が調べても分かりませんでした。しかし、「ゆりかご以前」のことが小学校低学年の頃、突然判明したのです。「ぼく」の親戚にあたる人物が「自分が預けた」と名乗り出たのです。自責の念に駆られたといいます。この親戚は、ゆりかごの扉を開けた人しか持っていない「お父さんへお母さんへ」の手紙を持っていたので間違いなかったそうです。そして、「ぼく」の実の母親は、生後5か月の時に交通事故で亡くなっていたという重大な事実も分かったのです。

 

ゆりかごより前の人生が分かった「ぼく」は、「ゆりかご以降」の日々をはつらつと生きています。中学・高校では陸上部に入り、11秒の壁を破ります。高校2年に、正式に養子縁組をし、「子ども食堂」の活動に熱中しているそうです。

 

18歳になった「ぼく」は、高校を卒業し、大きな決断をします。自分の名前を明かし、ゆりかごについて語っていくことにしたのです。

 

「どんなに時間がたっても賛否両論はあると思う。ただ、僕自身はゆりかごに助けられて今がある。自分の発言に責任を持てる年齢になったので、自分の言葉で伝えたい」と決意します。「預けられるまでの期間に比べたら、それから先の人生の方がずっと長い。一番言いたいのは、『ゆりかご後』をどう生きるかです。僕にできるのは、預けられた実例として自分ことを語ること。親子の関係がしっかりしていれば、『ゆりかご後』はこんなふうに成長するよって、知ってもらいたい」と語ります。

 

保育園ホワイトきゃんばすの10年の歴史の中では、何人かの園児が、現在、児童養護施設で生活をしています。親にスポットを向ければ「どうして・・・なんで!?」という気持ちは残りますが、子どもにスポットを向けると「この子にとって、今考えられる一番の幸せを」との思いにたどり着きます。

 

「ぼく」には、これからも、「ゆりかご後」の人生をしっかりと生きてもらいたいですね。