今日も屋上は北風がビュービュー・・・そんな中、年少の男の子が「園長先生。野球やりたい」と言ってきました。こうして、野球に興味を持ってくれたので、上手になってもらいます。楽しみですね。
さて、いきなりですが、「法のルールに従うことで成り立つ、自立した個人の集合体」のことを一般的に「社会」といいます。しかし、日本は、そうした西欧流の「社会」ではなく、「世間」という、日本独自のものが存在するといわれています。
「渡る世間は鬼ばかり」という国民的ドラマがありますが、古くからあるのは「渡る世間に鬼はない」ということわざです。では、この「世間」というのは、いったい何ものでしょうか。「世間が許さない」「世間体を気にする」などの言葉もありますね。
日本では、多くの人が「世間に迷惑をかけないことが大切だ」と刷り込まれて育てられます。それ故に、コロナ禍では、全員が何の抵抗もなくマスクを着用します。欧米の映像を見ると、マスクをしている人の方が少ないですね。「世間」に迷惑をかけないように、政府や自治体による強制力のない要請であっても、空気を読んで自主的に従うのです。
つまり「世間」とは、「日本人が集団になった時に発生する力学」と定義されるようです。「世間」は英語や他の外国着にもうまく訳せないのです。コロナ禍では、外出する人や営業する店を監視しネットなどで批判する、いわゆる「自粛警察」がその象徴ですね。
実は「世間」という言葉は、古くは万葉集に詠まれるなど、1000年以上前から存在しているそうです。長い歴史の中で、「友引の日に葬式はしない」など、たくさんのルールが作られ、多くの人は、律儀に「世間のルール」を守ってきました。このルールが、秩序を守るうえでプラスになることも多くあると思いますが、どうやら、現代社会では、息苦しい「同調圧力」になっているようです。
終業時間になっても上司が仕事をしていれば帰宅しにくい・・・「空気を読まない人」は、迷惑な人としてバッシングされてしまう・・・など、数えればきりがありませんね。
子どもたちが、やがて大人になって生活していく中では、やはり、合理的な根拠のない世間の「謎のルール」をなくしていく必要があります。空気を読んでも、必要がなければ、あえて従わない。場の空気を乱すことを恐れずに発言するような取り組みが、風通しの良い世の中をつくっていくのでしょう。まずは「やさしい世間」からつくっていきたいですね。
やさしい世間をつくるには、個を強くしながら、他者との違いを認め受け入れられるような心の余裕を待たないといけません。