今日の体操教室・・・ベテランの先生と初めての○○先生のタッグで、子どもたちの指導をしていただきました。新しい先生は、いずれ一人で担当してもらうので、今日は、「どんな感じで保育園ホワイトきゃんばすの指導をするのか?」を経験した次第です。
子どもたちは、新しい人も物も大好きですので、さっそく質問攻めにしていました。体操の先生が二人いると、内容もハードですが楽しかったですね。とび箱にも挑戦して、大満足で保育園に戻りました。
さて、体操といえば、東京五輪で銅メダル、世界選手権では2度の金メダルに輝いた「日本女子として初」がつく功績をいくつも残した、村上茉愛(むらかみ・まい)選手が、現役を引退しました。
彼女は、華があるので、てっきり芸能界で活躍できるだろうと思っていましたが、母校の日体大でコーチとして後輩の指導にあたる道を選択します。
オリンピックで、日本女子体操が表彰台に上がるのは、団体で銅メダルを獲得した1964年の1回目の東京五輪以来という快挙でした。しかし、村上選手の体操人生は、決して順風満帆ではなかったのです。
村上選手は、14歳の時132センチ、30キロの小さな体で得意のゆかで全日本のチャンピオンとなります。あの池谷幸雄さんの体操クラブの1期生ということもあり、いきなり脚光を浴びます。それから3年後の世界選手権のゆかで4位に入り、このまま世界の村上になっていくものと誰もが思っていました。
しかし、帰国後、燃え尽きた感じになってしまったそうで、仮病を使って練習を休んだことも・・・今では考えられないと、彼女は言います。「重量が軽いものを食べれば体重が増えなくて、体が動くと思ったんです。だから、ごはんを残して、隠れてお菓子を食べていました。だらしないアスリートっていうか、アスリートですらなかったですね」と。
2015年4月の全日本個人総合選手権。ゆかで予定していた最後の宙返りを「放棄」したのです。朝起きたら腰が痛くて、「今日の試合はダメだな」とすぐに諦めてしまったそうです。24選手中21位という散々な結果となり、当時の監督に呼び出され「考えを改めなさい」と言われるも「改めって言われてもなぁ~」という態度だったそうです。
髪を染めて、態度の悪さもあって母が呼び出され、隣りで母が泣いている姿を見て、ようやく「これじゃダメだ」と思ったそうです。これ以降、村上選手は変わっていったのです。
引退会見で、最も思い出深い試合としてこの「惨敗」を挙げていました。たいがいの選手は、「勝利」したことを挙げるのでしょうが、彼女は、あの惨敗で強い意志とアスリートとしての自覚を持てるようになったと言います。
そして、これからは、コーチとして日本の女子体操界を強くすると決意したのです。でも、村上茉愛らしく、ダンスのレッスンを受けるそうです。振り付けもできるようになりたいと・・・マルチな人間の方が、若い選手の指導には向いているのかもしれませんね。
やっぱり、子どもたちには、失敗や挫折を経験しないと大きくなれないと、改めて感じました。昨日、卒園児の小3の姉と小1の弟が、持久走大会の結果報告に来てくれました。保育園の紅白対抗リレーでは共にアンカーを走った運動能力抜群のきょうだいです。結果は、学年で姉が2位で弟は3位です。順位としては「凄い!」のですが、姉は3年連続で同じ子に負け続けます。弟は試走では2位だったのに本番で3位に落ちてしまったのです。この経験は、2人にとっては「悔しい、負け」なのです。でも、この経験が二人をさらに大きくするのです。