昨日の寺子屋では、秋まつりに行う5つのゲームの一つ「輪投げゲーム」の輪を子どもたちが色を塗って完成させました。「ダーツゲーム」のダーツも子どもたちの手作りです。今から、子どもたちのワクワクドキドキが高まっていきます。当日は、雨が降らないように願うだけです。
さて、今日は、少し重い内容につき合ってもらいます。「やまゆり園事件」を覚えていますか。2016年7月26日未明、神奈川県立の知的障碍者施設「津久井やまゆり園」で、入所者19名が刃物で刺され死亡、職員2人を含む26人が重軽傷を負った痛ましい事件です。
あれから5年が経過し、2020年3月に死刑が確定した犯人の植松聖。彼は、一貫して「意思疎通のできない障害者はいらない」と公言し、社会のためにやったと主張します。16回開かれた公判では、刑事責任能力の有無のみが争われ、障がい者への差別意識を持つに至った経緯はほとんど解明されていません。
裁判とは、そのようなものでしょうが、このままでは、この事件は特異な人間の特異な犯行として忘れられていく恐れがあるとして、地元紙である神奈川新聞の取材班は、裁判の傍聴や植松聖との接戦を続けます。彼に賛同するネットへの書き込みや、彼への手紙が多くあったことを問題視し、この事件を社会の問題として切り込んでいったのです。
そして、「異常者」は、私たちの社会が作り出したのではないか・・・つまり、学校教育にも問題があるのでは・・・と分析します。
「子どもたちを障がいの有無や学力によって『分ける』ことはむしろ、差別や排除のまなざしを植え付けることになる。事件の加害者のような人が出てくる土壌を、学校教育がいまもなおつくりだしてはいないか」
「勉強や運動ができる、あいさつができる、並ぶ時に列を乱さない、おとなしく座って授業を受けることができる・・・。学校教育がめざすべきとされる『子ども像』は、教師から見た『教えやすい、好ましい子ども』にすぎないのではないか」
先日、2020東京パラリンピックが終わり、多くの障がいを持った、パラアスリートたちから私たちは、夢や勇気をもらいました。「意思疎通の出来ない障害者はいらない」という植松聖の言葉には、強い不快感を覚えます。
この神奈川新聞社が取り上げた、「異常者は社会が作り上げたもの」という問題提起について、私たちは、ずっと考え続けないといけないと思っています。