今日の寺小屋は、「30メートル徒競走」を行いました。運動会の最初の種目です。寺子屋3番にとっては、初めて、30メートルの長い距離を走ります。どうだろうか?と思ったものの、12名の新人寺子屋全員が、途中で止まることなく最後まで走り抜けました。園児たちも「楽しかった・・・もっと走りたい!」という感想です。今から、運動会が楽しみになってきました。
さて、41年前、五輪出場の夢を絶たれた男が、聖火リレーで石畳の道をゆっくりと走っています。右足は義足です。糖尿病の合併症により、右足を膝下から切断したのです。彼の名は、プロレスラー・谷津嘉章(やつよしあき)です。
1980年、当時24歳だった谷津は、モスクワ五輪のアマレス日本代表に選出されながら、出場を果たすことが出来ませんでした。東西冷戦の時代状況において、アメリカの呼びかけに応じ、日本はモスクワ五輪をボイコットしたからです。モスクワ五輪代表のレスリングの谷津は、マラソンの瀬古・柔道の山下・体操の具志堅らと並び、実力的にメダルが期待された数少ない選手の一人でした。
モスクワ五輪が幻と消え、谷津はアマレスに見切りをつけ、新日本プロレスへ入団します。スター候補として入団した谷津は、1981年6月、総師・アントニオ猪木のタッグパートナーという破格の扱いで国内プロレスデビューを果たします。
しかし、相手はアブドーラ・ザ・ブッチャーとスタン・ハンセンという外国人エースのタッグです。谷津は、ボコボコにされ、最後は血ダルマにされる散々なデビュー戦となったのです。当時高校生だった私も記憶にある谷津の惨敗です。
その後谷津は、プロレスラーでありながらアマレスの全日本選手権フリースタオル130キロ級に出場し、6年間のブランクをものともせずに優勝を飾るのです。「プロレスラーがアマチュアに負けたら示しがつかない」と、相当なプレッシャーを押しのけての優勝です。
そして、モスクワ五輪の悲劇から8年後の1988年のソウル五輪代表候補となるのです。ついに、五輪出場か・・・しかし、国際アマチュアレスリング連盟が「プロの五輪出場はNG」と待ったをかけ、谷津の五輪出場の夢は、またしても消えたのです。
しかし、「悲運の男」谷津嘉章は、41年ぶりに人生の忘れ物を取り返したのです。たった150メートルの花道を約3分間かけて聖火ランナーとして走ったのです。
「右足はもうないけど、まだ前に進まなきゃいけないから、区切りをつけておきたかった。・・・これで、俺の五輪は完結したよ」と谷津は語ります。
あの長州力のタッグパートナーとして、実力者だった谷津嘉章・・・こうして、彼の中にずっとくすぶっていた、五輪への思いが、ようやく晴れて・・・なんだか、いい話ですね。