本日、寺子屋園児は、ピクニックランチでした。あいにくの雨となってしまったので、屋上のエレベーターホールで行いました。青空の下というわけにはいかなかったのですが、子どもたちにとっては、ママが作ったお弁当を食べることが、一番の楽しい時間です。朝、自分で「スクランブルエッグ」作った6歳男の子は、もちろん、一番最初にスクランブルエッグをたいらげていました。(笑)
さて、ヘミングウェーの代表作「老人と海」は、ご存知ですか。私も中学時代に国語の先生に感想文の課題にされたのが、最初の出会いです。
「老人と海」は、84日間に及ぶ不漁に見舞われた老漁師サンチアゴが、再び一人小舟で海に出る物語です。やがて、網に大物の手応えを得て、巨大カジキとの死闘に勝利します。しかし、港に帰る途中、海は彼にさらなる試練を課すという物語です。ぶ厚い本ではありませんが、ハラハラドキドキの内容です。
この本は、1952年に発表され、日本では福田恆存(つねあり)さんの翻訳で長く親しまれていました。「老人と海」は、新潮文庫で販売されていますが、福田訳は、現在122刷499万部の発行部数で、新潮文庫全体でも「夏目漱石『こころ』」、「太宰治『人間失格』」に次ぐ人気だそうです。外国小説では、ナンバーワンですね。
このたび、高見浩さんの新訳が刊行されました。翻訳者が違うと、当然翻訳された小説の内容も微妙に変わってきます。
例えば、物語りの終盤、カジキとの死闘の後に、サンチアゴが己の手落ちを悔いながらも、自身を叱咤し、奮い立たせる場面があります。
福田訳では「冗談じゃない、いまは持ってこなかったもののことなんか考えているときじゃない。ここにあるものでできることを考えるがいい」に対し、高見訳では「ま、ない物を嘆いたところで仕方がない。あるもので何ができるかを考えるこった」です。
サンチアゴの激しい感情をたたきつける福田訳に対して、年を重ねて初めて持ちうる洞察力の重みを高見訳は表現しています。
こうなると、翻訳者の小説という感じになってきます。こうして、読み比べるのも楽しいですね。まぁ、英語の原本をスラスラと読むことができれば、自分の解釈で読めるのでしょうが・・・
もう一度、ヘミングウェー「老人と海」を読みかえしたくなってきました。