保育の仕事を目指す学生のリポートに多いのが、「子どもの主体性をつぶさないように、保育者は子どもと関わらずに『見守る』」という内容だそうです。
この『見守る』というのは、保育の世界でも子育てでも、とてもやっかいな言葉です。『見守る』の定義は、人によってバラバラだからです。
保育園や幼稚園の先生が「見守る」を意識しても、子どもが「何もしてくれない。助けてもくれない」と感じてしまうようなら、それは、見守るではなく「何もしない」ことと同じです。
しかし、その反対で、先生の指示が多かったり、子どもが言われてやることが多かったりすると、だんだん、子どもは先生の言うことを受け入れるだけになってしまいます。私が、一番恐れる「何も考えない子」を排出する保育園、幼稚園となってしまいます。
ホワイトきゃんばすでの「見守る」は、先生一人一人のアプローチは同じではありませんが、「子どもが自分で考える」ことにつながる保育です。相手となる子どもによって、積極的なアプローチが必要な時もあれば、「自分で考えてごらん」で済む子もいます。とても難しいですが、大切なことです。
これは、子育てにも言えることです。おやじ園長の本「一杯のチョコレートから子どもたちの笑顔へ」の宣伝をします。(笑)本の内容そのままです。
『子育てにおいて、重要なモノサシとなるのが、「ほったらかし」と「見守ること」と「過保護」の線引きです。ちょっとイメージしてみましょう。手にコインを握っているイメージです。コインが我が子だと思ってください。手の甲を上にして手を離すとコインは下に落ちてしまいます。これが「ほったらかし」です。
でも、手の甲を下にして手を広げるとコインは落ちませんね。手のひらにコインが乗っている状態が「見守る」ことです。子どもは、手のひらの中で自由に活動することができます。しかし、親は、手のひらからコインが落ちてしまわないか、心配でなりません。そう考えると、コインが落ちないように、強く握りしめてしまうのです。これが「過保護」です。
「ほったらかし」と「過保護」の環境の中では、子どもは「自分で考えて自分で答えを出せる人」にはなれません。では、もう一度手を広げて「見守ること」をしましょう。コインが、手のひらの上を自由に動き回るには、手のひらが大きい方がいいですね。つまり、親も手のひらを大きくするように、成長しなければならないのです。「ほったらかし」にも「過保護」にもしないで、子どもを見守ることには、親の成長や、心のゆとり、子離れすることなど様々な要素が必要になります。当り前のことですが、子育てをするということは、親自身の成長が必要ということです』
私の悪い癖で、「○○しなければならない」という言い方をよく使ってしまいます。でも、もっと気楽に、人生を楽しみながら親も成長すればいいのです。