今日の寺子屋では、節分の豆まきで子どもたちがかぶる「鬼の面」を作ります。今週中には、全員のお面が完成します。各園児のオリジナル鬼となるので、当日が楽しみですね。
さて、ある中学校の道徳の時間です。黒板には、孟子(もうし)と荀子(じゅんし)の画像が張られています。生徒たちは、3、4人ずつの班を作って性善説と性悪説についての考えを話し合います。
この日に取り上げた内容は、孟子の性善説と荀子の性悪説を通して人間の良心について考える「人って、本当は?」です。
私も中学時代、国語の時間に、性善説と性悪説について、熱く語り合った記憶があります。みなさんも、必ず一度は、授業の中でこの問題を議論したのではないでしょうか。
話が進む中で、「どんな話し合いをしたか」を発表します。全員の考えが一致した班はありません。
「人を助けるのは自分が後悔しないためにすることだから、人間の基にあるのは性善説ではない。後悔するという罪を自分自身が感じるから…罪がなければ助けない」といきなり、中学生らしからぬ深い発言が飛び出します。
「生まれた時は自分の考えがないから、どちらでもない『無』なのでは」とこれまた、核心をついた意見が出ます。
話が深まり、最後の感想を言った生徒は「最初は性悪説だと思っていましたが、他の人の意見を聞いて、善と悪の考え方は育った環境や教育で身についていくのではないかと感じた」と答えます。他の人の意見を聞いて、自分の意見を変えていくというのは、授業としてはいい流れですね。
これこそ、生徒の発言に「なぜ」の理由を尋ね、その根拠を掘り下げる、深い学びにつながっていると言えます。こんな授業をしたいものですね。
保育園ホワイトきゃんばすでの取組みは、子どもたちが大人になった時に「自分で考えて自分で答えを出せる」ように、見守り、教育をしていくのが目標ですから、性善説でも性悪説でもありません。育つ環境や教育で、子どもたちを変えていくという考えです。