8年という月日は、普通なら、一昔前、遠い過去という言葉で表現されるのでしょうが、3月11日だけは、8年前が、つい昨日のように、記憶が思い出されます。
私たちは、まだまだ被災地でおきた、多くの悲しい出来事のすべてを知りません。こうして、3・11を迎えるたびに、当時の出来事を1つ1つ心に刻むのも、私たちの責任でもありますね。
今日は、岩手県の大槌保育園で起きた悲劇を振り返ります。保育園園長の言葉をそのまま記します。
~3・11当日は、揺れを感じてすぐ、「地震です。先生のそばにあつまってください。大丈夫、こわくないからね」と園内放送し、揺れが収まったらすぐに職員が園児に防災ずきんと上着を着せました。園庭に整列させ点呼をとる決まりになっていましたが、そんな時間はないと判断。職員全員で、110人ほどの子どもを準備できたクラスからすぐ避難させました。
コンビニの駐車場にいると次々に保護者が迎えに来ました。約70人の子を引き渡した時点で、ふと、水門を見ると、決壊し、電柱がなぎ倒されていて津波と気づきました。残った40人ほどの子どもと国道を駆け上がり、国道沿いの山の急斜面を四つんばいになって必死に登り、何とか助かりました。暗くなってきたころ火災が起こり、また内陸側へ避難しました。子どもたちは誰1人泣かず、しーんとして、街が津波にのみこまれ、火に巻かれる様子をじっと見ていました。歩いて迎えに来た保護者に全員を引き渡し終えたのは2日後のことです。
一方で、当日、コンビニで引き渡した園児のうち9人が犠牲となりました。多くが保護者とともに亡くなりました。最後に引き渡した子は、遺体安置所で小さな右手を見たとき、すぐわかりました。保育士を辞めなければならないと思いました。
震災から半年後、親子遠足を計画した時、「行かない」という子がいて、子どもたちみんなで話し合うことになりました。その中で、初めて亡くなったお友達の名前が出ました。ある年中の女の子が、「なんで津波が来たんだろう」と語り始め、「園長先生がさ、(犠牲になったTちゃんたちに)『おうちへ帰らないで!』って言えばよかったじゃん!」と言いました。初めてぶつけてきた本心でした。「Tちゃんに会いたい」と言って、私も含めたみんなで号泣しました。
親族や家をなくした職員も多く、津波の話は避けていましたが、正直に向き合わない大人たちの心を見抜いていたのです。子どもの代弁者は大人だけど、大人の代弁者も、子どもたちだと気づきました。言えないことを言ってくれました。以来、私たちも、悲しいときは、保育中でも「あの子のことを思い出して泣いちゃったよ」と言って泣き、感情を出すことから逃げないようになりました。~
どうですか。当時の園長先生の判断を私は責めることはできません。親に引き渡す判断が、間違えの時も正解の時も、その都度の判断で変わるのです。
私たちは、少なくとも、3月11日には、「災害が起きた時にはどうするか?家族との連絡は・・・避難場所は、会社や学校では、家ではどこなの?非常食はあるの?」などなど、多くの確認を行う大切な日にしないといけません。
みなさんにとっての3・11・・・いつまでも忘れられない日にしなければなりません。