ミライをつくった人③ベアテ・シロタ・ゴードン

今日は、73回目の終戦記念日ですね。来年の8月15日は、新しい年号となっているので、平成最後の終戦の日ということになります。

 

昭和20年8月15日の終戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、明治憲法(大日本国憲法)こそが日本の軍国主義を助長したと考え、日本政府に新しい憲法をつくるように強く求めていました。しかし、当時の日本政府の憲法案は、民主的な新憲法と呼べるものではありませんでした。そこで、GHQ側で草案を準備することとなったのです。

 

草案作成に与えられた時間は、わずか9日間です。この草案作成のメンバーの中に22歳の最年少の女性「ベアテ・シロタ・ゴードン」がいました。彼女は、日本に「男女平等」という概念をもち込み、定着させた女性です。

 

男尊女卑で女性が虐げられていた日本社会を、たった一行のルールでひっくり返した女性なのです。

 

ベアテ・シロタ・ゴードンという女性をご存知ですか、GHQの憲法草案については「トップ・シークレット」でしたので、最近までは、無名の人物でした。1990年代になって、彼女は、日本での講演などを通じて、その名が知られるようになります。

 

ベアテは、ロシア系のユダヤ人としてオーストリアのウィーンに生まれ、5歳から15歳までのあいだ日本で暮らしました。父親のレオが世界的なピアニストで、たまたま中国のハルビンでコンサートを開催したとき、偶然観客席にいたのが、日本を代表する音楽家、山田耕作でした。山田耕作は、童謡「赤とんぼ」などの作曲者として有名ですが、日本初のオーケストラを設立した人物です。

 

素晴らしい演奏に感動した山田耕作は、レオに来日公演を依頼します。そして、日本を大好きになったレオは、そのまま17年間も日本に住むことになるのです。その時の一人娘が、当時5歳のベアテです。

 

ベアテは3カ月も経たないうちに日本語をしゃべりはじめます。充実した日本での生活も、戦争の影が忍び寄り、ベアテが高校を卒業するころには、とても日本の大学への進学は考えられなくなります。ヨーロッパに蔓延する反ユダヤ主義の風潮を考え、1939年にアメリカの大学の進学を決意します。日本とアメリカが戦争に突入する、2年前のことです。

 

戦争に突入し、日本に住む両親との連絡も取れなくなりました。そこで、日本語、英語、ドイツ語、ロシア語、フランス語、スペイン語の6か国の語学力を生かした仕事で生活費を稼ぎます。こうしてベアテは、学生時代から翻訳者として働き、大学卒業後には陸軍の情報部で翻訳と日本語ラジオ放送の仕事に就きます。さらに、2年後にはニューヨークに移り住み『タイム』の外国部で働きました。

 

そして、1945年8月、太平洋戦争が終結すると、ベアテは両親の住む日本に帰ることを

決意します。終戦間もない日本では、民間外国人の入国が厳しく規制されていました。そこで、ベアテは、GHQの職員に応募し、兵士たちと一緒に「第二の故郷」である日本に入ることができたのです。終戦から4か月後のクリスマス・イブのことでした。

 

両親にも再会でき、彼女が所属していたGHQの民生局が、あたらしい日本国憲法の草案をつくることになったのです。ここから彼女は「世界じゅうの知恵を結集して、大好きな日本に、最高の憲法を届けるんだ」と、人生でもっとも濃密な9日間を過ごすことになるのです。彼女の担当は「女性の権利」でした。

 

果たして、ベアテの草案、女性や子どもの権利を日本政府は認めてくれるのか?答えはノーです。「日本には女性と男性が同じ権利を持つ土壌がない。日本女性には適さない条文が目立つ」と拒否されます。

 

日本政府に対する彼女の立場は、草案者の一人ではなく、ただの通訳でした。日本政府に対しても、GHQの憲法草案担当者たちはトップ・シークレットだったのです。

 

自分の担当した草案に対する日本側の主張を通訳として、GHQ側の実質的なリーダーだったケーディス大佐(マッカーサーは憲法草案には、ほとんどかかわっていない)に伝えると、ケーディス大佐がこう言ったそうです。

 

「この条文は、日本で育って、日本のことをよく知っている、この『シロタさん』が日本女性の立場や気持ちを考えながら、一心不乱に書いたものです。日本にとって悪いことがかかれているはずなどありません。彼女のためにも、これを通してもらえませんか?」

 

日本側の担当者が、ただの通訳だと思っていたベアテをいっせいに見ます。彼女の日本語能力、日本に対する理解の深さ、献身的な態度などは、すでに日本側の担当者たちから絶大な信頼を得ていました。

 

「このシロタさんが書いたのですか。・・・わかりました、それではこのまま通すことにしましょう」

 

こうして、ベアテがずっと訴え続けた女性の権利は、日本国憲法第24条として残されています。

 

日本国憲法 第24条

一 婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

二 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 

1946年の時点で、男女平等が憲法に明記されたことは、世界的に見てもかなり異例のことでした。フランスでは、同じ1946年に男女平等の条項ができましたが、日本と同じ敗戦国となったドイツの場合は3年後の1949年で、意外なことにアメリカでは、いまだに男女平等の条項がありません。

 

どうですか。ベアテ・シロタ・ゴードンという22歳の民間人女性が「たった一行のルール」によって、日本を変え、日本女性の未来を変えたのです。

 

もし彼女が、「男女平等」を訴える市民活動家としてアクションをおこしても、無視されるだけで終わったでしょう。彼女は、それを「ルール」として日本国憲法というかたちにしたのです。

 

ミライをつくる若者たちへ・・・行動を起こすことは大事ですが、「ルール」というかたちにするまでが仕事と考えると、活動が変わってくるかもしれませんね。

 

ベアテは、2012年に亡くなりました。これで、日本国憲法の草案にかかわった人物は、誰一人生きていません。ベアテ本人も憲法9条の草案者はわからなかったそうです。