今日は、お盆休み前最後の保育です。久々のプールに子どもたちは、最高の笑顔で楽しみました。そして、午後には、さいたま市教育委員会特別支援教育相談センターの2名の担当が、保育園に見学にやってきました。
彼女たちの仕事は、小学校への就学にあたって、普通学級か特別支援学級かのどちらを選択するか?についてや、様々な教育についての相談の窓口です。
約1時間ほどの見学の中で、ホワイトきゃんばすの子どもたちとふれあっていただきました。見学が終わって、少し話をしたのですが、夕方の自由遊びの時間ということもあり、子どもたちが、年齢の壁を越えて、楽しく遊んでいる姿に、とても感動されていました。異年齢保育の環境を見学することは少ないそうです。
「園内にたくさん子どもたちの写真もあって、なんだかほのぼのします。多くの園児が、人懐っこく話しかけてくれて、楽しい時間をすごさせていただきました」という感想です。
話の本質はここからです。
「お仕事の立場上、発達障害の疑いがある園児は、より大切にケアしなければならないので、特別支援学級を薦めることが多いのですか?」
「そのようなことはありません。最終的には、保護者が決断されるので、その選択についての様々なアドバイスをさせてもらっています」と話されます。
また、「今から10年以上も前なら、特別支援学校に通う子を隠す親が多かったですが、今では、できるだけ、外の環境を経験させてあげたいという保護者が増えてきていることは事実です。また、社会も障害を持った人への理解が深まってきたように感じます。」
とも話されました。日本が少しずつ「違うこと」が当たり前の世の中に変わってきていると言えるのかもしれません。
おやじ園長の本(宣伝ですみません)の第1章の3「私が保育園を開園した理由」の中で、ある特別支援学校の母親の話を載せていますが、まだ、ハンデキャップを持つ子どもへの理不尽は残りますが、その親は前を向いて生きているという内容です。
思い切って、私の持論をぶつけてみました。
「私は、特別支援学校は必要だと思っています。肢体不自由の子どもたちや重い知的障害の子どもへの支援は必要だからです。しかし、日本が、ヨーロッパの国のように、発達障害やグレーゾーンの子どもたちを当たり前のように受け入れる世の中に変わっていけば、極論かもしれませんが、将来において、普通学校にある『特別支援学級』は不要ではないでしょうか。現在、『特別支援学級』で教える教員は、「違う」ことが当たり前の日本の風土を築く取組みも合わせて行うべきではないのでしょうか・・・」
現実的には、「授業中に大声を出したり、席をウロウロする子どもがいたら、我が子の勉強が遅れる!別にしてほしい!」という保護者があるでしょう。そんな現状で、私の理想論をぶつけると・・・
「いつかは、日本もそうなってほしいと考えています」という肯定的な意見をいただきました。
この問題には、1つの答えはありませんし、様々な議論が必要です。私の考えなどは、現実が分かっていない戯言と言われるかもしれません。しかし、ホワイトきゃんばすは、近くにある特別委支援学校と、今まで多くの園児の療育などで、連携を図っています。今回のような専門的な立場の人と、今後も交流を進めながら、この課題を考えていきたいと思っています。