さいたま市にあり、保育園の子どもたちが、何度も通う鉄道博物館・・・ここに、初代新幹線0系が展示されています。あの「団子っ鼻」の形は、高速運転を実現するために空気抵抗を減らすべく、当時もっとも理想的な流線形とされていた航空機を模してデザインされたそうです。
昭和39年、東京オリンピックが開催された10月1日・・・ついに、夢の超特急、東海道新幹線が開業しました。この1番列車は、午前6:00新大阪発東京行「ひかり2号」でした。
新幹線の運転士になるには、知能テストや機能検査などがあり、「パイロット並み」の厳しさと言われています。反射神経のテストでは、椅子にベルトで縛られ、ぐるぐる回されて止まり、何秒で目の焦点が合うかどうかということも行われたそうです。当時、新幹線の運転士は100人ほどいたとのことです。
この一番列車に抜擢された二人の運転士の話によると、午前6時に新大阪を出発したものの、国民の関心事は何と言っても「時速200キロ」を出せるかどうかに集まっていたそうです。何せ、「夢の超特急」が売りでしたから・・・
しかし、新大阪から東京までは4時間で運転することになっていました。今は2時間半ぐらいですから、ずいぶんと遅かったですね。
4時間なので、200キロで走ると、時間が余ってしまうことになり、160キロくらいでないと定時運行ができないという設定でした。しかし、速度計が設置されたビュッフェに大勢のお客様が集まり、車掌に「いつ200キロ出すんだ!」と矢のような催促が続きます。たまらず車掌は、「とにかく200キロ出してください」と運転士に電話をしたそうです。
運転士は、京都を越えてトンネルが2つあり、その中をノロノロと走って時間を稼ぎ、トンネルを出てから目いっぱい速度を上げて、210キロでぶっ飛ばします。それから、また速度を落とし、米原などの通過駅では、ホームの見学の人々がたくさん来ているので、また恰好よく210キロでぶっ飛ばしたそうです。
そんなことを繰り返し、運転士は、新横浜を通過したところで、所定よりも5分早く走っていることに気づいたそうです。日本の鉄道は、予定時刻よりも早く到着してはいけません。定時ピッタリが義務付けられています。
そこで、田町付近で40キロ近くまでスピードを落とし「時間稼ぎ」をすると、隣を走る山手線に抜かれてしまったそうです。「夢の超特急が在来線に負けちゃって、まずいな」と二人の運転士は、顔を合わせて苦笑いだったそうです。
そんな、運転士二人の「調整能力」で、東京駅には、予定通り10時定刻に到着します。今でこそ、定刻着は当たり前ですが、この時は、試運転での故障とトラブル続きで、大幅な到着の遅れを予想していたそうです。
あと数年後には、リニアモーターカーが開業されます。時代はどんどん前に進みますが、日本が、今や世界に誇る「夢の超特急」の起源には、こんな物語がありました。