保育園の鉄道好きの子どもたちとは、〇〇線に乗った・・・〇〇系を見たんだよ・・・サンタさんには、大阪環状線のプラレールを頼んだよ・・・の会話の聞き役を楽しむおやじ園長ですが、お正月ですので、大人のための鉄道の話をします。
平成の歴史よりも1年早く、昨年2017年は、JRが発足して30年を迎えました。様々な形で30周年を祝うイベントが行われました。また、保育園ママやパパにとっては、生まれた時にはすでにJRで、国鉄という言葉がピンとこない人もいるでしょう。
保育園パパの一人は、現在JR東日本に勤務されていますが、生まれた時には、すでに国鉄はありませんでした。30年という時間は、すでに「ずいぶん昔の出来事」となっているかもしれませんね。
リストラという言葉は、まだ30年前にはありませんでした。いま、日本社会を覆うリストラの不安も、振り返ってみれば、国鉄(日本国有鉄道)からJRと民営化になった、30年前が、その始まりだと言われています。
戦争が終わり、昭和30年代の高度経済成長が輸送力を飛躍的に伸ばしました。しかし、国民が豊かになると自家用車を持つようになり、鉄道をあまり使わなくてもよくなりました。また航空機時代の到来で、皮肉なことに、新幹線が開業し、東京オリンピックが行われた昭和39年1964年に、国鉄は赤字に転落します。以後、JRとなるまでの23年間一度も黒字にはなりませんでした。最後は、毎年1兆円の赤字が出ていました。もう「国鉄だから仕方ない」では、すまされない状況となったのです。
国鉄は、最盛期には46万人の職員を抱えていたそうです。田舎の小さな駅にも駅長がいて、貨物列車の車掌や踏切警手など、今では失われた職場が多くありました。私の祖父も九州のローカル線で国鉄マンでした。まだ蒸気機関車の時代です。
数字で語れば、毎年1兆円の税金を無駄にしている国鉄でしたので、「このままではいけない。都市部を除けば鉄道がなくなる」という危機感が漂いますが、国鉄幹部は、自らの地位をなくすような改革などできません。
そして、当時は、アウトローと呼ばれた国鉄改革にまい進した人たち・・・政治も色濃く介入します。労働組合の動きも複雑でした。当時国鉄には3つの主要組合がありました。「国労(国鉄労働組合)」「動労(国鉄動力車労働組合)」「鉄労(鉄道労働組合)」です。それぞれ、バックボーンとなる政党があったりしたのですが、労働組合も民営化反対と賛成に分かれました。最後まで、反対と闘争したのが「国労」で、民営化後、社員を選別する際、その一つにどの労働組合に所属しているかが重要な要素だったとも言われています。当然、国労に属する人は、JR発足後に、意図的に厳しい対応を迫られる人が多かったそうです。
「清算事業団」という言葉を聞いたことがあると思います。JRに残れなかった人を、3年間、一時的に回したのです。私が、新人営業マン時代、横浜駅に「清算事業団」が運営する銘店コーナーができましたが、そこで働く人たちは、全くやる気がありません。ストライキで店に立つことができない時に、応援部隊として、メーカーの営業が店番をした事がありました。私も、投げやりの清算事業団のメンバーから、仕事を引き継ぎ、複雑な心境となったことを思い出します。
民営化は、分割というスタイルとなりました。JR北海道から九州までの6旅客とJR貨物の合計7社となります。そして、JRとなって30年が経過しました。
今から15年前の話です。まだ「駅ナカ」という言葉が定着していなかった頃、中堅の営業マンだった私は、駅ナカに店を作ろうと、必死でした。当時、駅構内の利権を握っていたキヨスク(鉄道弘済会)に、これからの時代は「駅ナカ」と大プレゼンテーションを打ち、百貨店中心の売上構成だった社内の説得にも上司の力を借りてまい進します。私が、プレイヤーとして一番思い出に残る仕事でした。(すみません・・・個人的な事です)
今となっては、結果論として国鉄が民営化されたことは、良かったとされていますが、国鉄からJRとなった時に、数字上の赤字と引き換えに、多くの国鉄マンが、リストラで職を失った事を忘れてはなりません。
学生時代、全国の国鉄路線を使って旅をした私が、社会に出て、JRの駅ナカビジネスに関わる仕事をさせてもらい、私の中では、国鉄からJRへの歴史は、他人ごとではありません。
どうですか・・・みなさんも、国鉄とJRについて、少し想いを巡らしてみませんか。子どもたちとは違う大人の考えに浸ってみませんか。
ということで、大人のための鉄道の話・・・今日は「国鉄からJRへ」でした。明日もお楽しみに!