「寺子屋」という言葉は、ホワイトきゃんばすでは、日常茶飯事に使われる言葉です。江戸時代後半には、「寺子屋」として、男女や地域、身分を超えて教育が発達し、武士のみならず、むしろ庶民が主体的に学ぶ教育が進められてきました。
この時代には、義務教育はありませんが、多くの子どもたちが「手習い」として、読み書きなど多くのことを学びました。その一人一人の大きな志や主体的に学ぶ教育が根底にあって、明治維新を実現させ、近代日本の知的基盤を形成させたと言っても過言ではありません。
2年前のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」の中で、後の吉田松陰となる寅次郎が「人は何故学ぶのか。学ぶのは知識を得るためでも職を得るためでも出世のためでもない。人にものを教えるためでも尊敬されるためでもない。己のためじゃ。己を磨くために人は学ぶんじゃ」と言うシーンがあります。
それを受けた小田村伊之助は「何故学ぶのか?この世の中のために、己が為すべきことは何かを知るために学ぶのです。私のこの長州を、日本国を守るために学びたい。己を磨き
、この国の役に立つ人間になりたい。そのために学びたい」と続きます。
これは、今でも、私の記憶に残るシーンですが、心から学びたいという思いがほとばしり出る言葉ですね。
そして、大正、昭和と時代が移り、第二次世界大戦の敗戦を経験します。いつのまにか、大人も子どもも周りの人たちを見て、違わないように、目立たないように気を使う文化が広がっていきました。もちろん、すべて否定されるものではありませんが、日本の子どもたちは、自己肯定感が世界でもワーストワンになってしまったのです。
しかし、これからの困難な時代を切り拓いていくのは、自ら学び、考える意志と行動力です。ホワイトきゃんばす流の言い方では「自分で考えて自分で答えを出せる力」です。
私たち大人が、子どもたちに対して「なぜ学ぶのか・・・なぜ勉強するのか・・・」の答えは、当然ですが一つではありません。吉田松陰の言葉では、抽象的すぎるかもしれませんね。
日曜日のくつろぎタイムに、何とも頭を使う「問い」ですが、たまには、まじめに考えてみませんか?子どもに対しての「答え」だけでなく、まだまだ、これから学ぶ自分への「答え」として・・・
なぜ学ぶのか・・・なぜ勉強するのか・・・