「大川小学校の悲劇」は、震災後に大きなニュースとなり、そして、現在も続いています。
東日本大震災の津波で、児童74人と教職員10名の計84人が死亡、行方不明となり、児童23人の遺族は、2014年3月、市と県に計23億円の損害賠償を求めて提訴。仙台地裁は昨年10月、「教員らは津波到来を予見できた。児童たちを学校の裏山に避難させるべきだった」として学校側の過失を認め、市と県に総額14億円の支払いを命じました。双方が控訴し、現在も仙台地裁で係争中です。
この津波で父を亡くした宮城教育大学3年生の佐々木さんの悩みは、とても深いものでした。父は、大川小学校の教員だったのです。自分は、「教員の遺族」なのか、「大川小の遺族」なのか・・・しばらくは、自問自答が続いたそうです。
佐々木さんは、尊敬する父と同じ教師を目指しました。教育実習の手引きには「先生は子どもとの信頼関係を築く」などの言葉は並ぶものの、「どうすれば子どもの命を救えるか」の答えは見つかりませんでした。そして、昨年10月の仙台地裁判決をもって、先生になる道を断念するのです。
当時12歳の男の子を亡くした佐藤さんに、自分が「教員の遺族」であることを打ち明けた後も、交流が続いたそうです。しかし、判決の内容次第では、関係が終わってしまうかもしれないと覚悟します。判決後、佐藤さんから「俺は今でも先生が子どもを守るべきだったと思うよ。でも、先生たちも最後まで頑張ったのはすごく分かる」の言葉に救われます。
教員になれなくても、「大川小の遺族」の一人として、子どもたちの命を守るためにできることがあるのでないか・・・と、佐々木さんは、引け目を乗り越えて、悲劇の教訓を語り継ごうと決心します。
彼の覚悟は、「児童の遺族」と「教員の遺族」の双方を隔てていた壁に、一つの風穴を開けたのです。ともに「大川小の遺族」なんだと。
私が大変お世話になった、元さいたま市の教育長の教え子もまた、大川小学校の教員でした。子どもたちの命を守ろうと、必死に子どもたちとともに非難をしたのですが、津波にのまれ、命を失いました。個人的には、現在行われている裁判については、とても複雑な気持ちに支配されます。
しかし、「先生や子どもたちの命をただの犠牲に終わらせたくない。未来へつなぎたい」と語り部となった佐々木さんが、「大川小の遺族」として、強く生きてもらいたいと願うばかりです。
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