「子どもの声がうるさい!」という苦情は、小学校の運動会でのスピーカーからの大音響や、中学校の部活動での声出し等々、よくある話でした。しかし、ここ1、2年の「保育施設設置」にあたり、地元の反対で、全国レベルで多くの施設が建設ができない状況となり、大きな社会問題となりました。
保育園建設の反対運動の理由は、「子どもの声がうるさい」だけではなく、園の前で立ちの話をする親のマナーであったり、車の駐車における交通違反や、危険性についても含まれます。
そして、先日、ついにこの問題が、司法の場で争われました。神戸市で保育施設を運営する社会福祉法人に、慰謝料100万円と防音対策を求めた近くの高齢男性の訴えを、神戸地裁は棄却しました。
「施設からの音は、我慢の限度を超えているとは認められず、違法とは言えない」と結論づけた一方で、子どもを通わせていない住民は施設から直接、恩恵を受けていないと指摘し、保育施設は、一般的な公共性を理由に、周辺住民に特別な我慢を強いることはできないとの判断も示されたのです。
ここで注目されるのが、「待機児童問題」です。マスメディアで、待機児童の話題を取り上げることが多くなり、また自治体も「待機児童を〇〇年までに、ゼロにします」という目標を掲げることで、待機児童に関係のない子育て世代以外の人たちが「保育施設ができても、子どもを通わせていない私たちには、何のメリットもない。税金は公平に使われるべきだ」となるのです。
子育ての経験があろうがなかろうが、多くの大人は、子どもたちが元気に騒いだり、走り回ったり、泣いたりすることが、子どもたちの発達に必要な事であることを知り、それを制限するのは難しいことと思っています。
しかし、「待機児童削減のために、保育園を作るのが急務だ!」という「公共性があるから納得しろ!」的なことには、「子どもの声がうるさい!」という理由をつけてでも、反対したくなるという気持ちは、住民の特別な感情とも言い切れません。
昔は「子どもは国の宝だ」と、よく言われたものです。現実的に考えても、子どもは将来の納税者であり、年金などの社会保障の仕組みの担い手でもあります。「日本の将来を託す子どもたちのために、私たち大人ができることを考えよう」という風潮になれば、「子どもの声がうるさい!」という流れにはならないはずです。
我が国では、昨年生まれた子どもの数が、初めて100万人を切りました。この少子化問題は、日本にとっての、大きな危機とも言えます。この国を、本当に子どもを産み、育てやすい社会に変えなければなりません。
おやじ園長の本「一杯のチョコレートから子どもたちの笑顔へ」の第2章で、「待機児童問題」にかかわる内容を取り上げています。よかったら、目を通してください。
「子どもの声は騒音ですか?」を議論することは、意味あることではありません。その背景にある、日本が抱える少子化問題が、考えなければならない本質なのです。
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