1月22日の講座は、「公教育をイチから考えよう」の共著である、リステルズ直子さんと苫野一徳さんの対談からスタートしました。
オランダや北欧などの教育先進国と言われる国々は、かつては、日本のように、黒板に1人の教師が立ち、教科書という共通のツールを使って、一斉教育をしていました。ターゲットは、平均的な学力を持つ生徒となります。当然、ついていけない生徒は落ちこぼれとなり、学力が高い生徒は、もの足りない、つまらない授業となります。
こういった問題点に対して、長い年月をかけて議論され、「教育の自由」という考えに至ったのです。義務教育という考えは、教育の保障であり、日本でもすでに実現しています。しかし、教育先進国には、「教育の自由」により、落ちこぼれがないと言われています。
では「教育の自由」とは何か?これは、すべての子どもたちに、一定レベルの教育を保障することではなく、すべての子どもが、自分の考えや学力に会った教育環境(学校)を選べる自由が保障されていることです。しかも、公立も私立もお金がかからないのが原則です。ヨーロッパの国々は、日本で言う消費税が15%以上のところが多いですが、これは、「子どもたちの教育費や国民の福祉に税金を投入するなら、これだけの消費税もよしとする」という国民の意思がベースにあります。
日本では、消費税を8%から10%へ上げることもペンディング状態ですので、日本における「教育の自由」を考えるときに、とりあえず、金の話は置いておきます。
「みんな違っていいんだけど、一緒になれば楽しいよ」
「1つの楽器じゃつまらないけど、たくさん集まればオーケストラになる」
という考え方がベースにあるのが、教育先進国の考え方です。「自由」という考えは、一見素晴らしく見えますが、それぞれが、「自由」を主張し、好き勝手をしたら、争いになります。
苫野一徳さんは、教育哲学者なので、彼のフレーズを使わせてもらえば、「教育とは、自由の相互承認のためにある」と言います。つまり、自分の自由も主張するが、相手の自由を認める力をつけることが、教育であると言います。
自分の主張をただ唱えるだけでは、ただの自己主張、自己満足でしかなく、他者からの承認が得られてこそ、初めてその主張が価値あるものとなるという考え方です。
「哲学」的で、なんだか、話が難しくなってしまいましたか?
簡単に言えば、よく「自分以外の他人の違いを認めよう」と言いますね。でも、それだけでなく、自分の違いを相手に認めてもらわなければ、前には進めないということです。
こう考えると、日本の公教育には、まだまだ変えなければならないことがたくさんありそうですね。(今日は、ここまで・・・)
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