先日、さいたま市立宮前小学校での保幼小連絡協議会に出席しました。ホワイトきゃんばすから2名の卒園児が、宮前小学校に入学しますが、今回引継ぎをしていただいた先生は、特別支援学級の担任です。この小学校では、スマイルクラスと呼んでいます。
まだ若い女性教員でしたが、彼女が特別支援学級で指導をするには、理由があります。彼女の妹が、発達障害(自閉症)だったそうです。当時は、「いきなり大きな声を出す変な子」というレッテルを貼られ、母親も姉である自分自身も、周りの大人たちからの偏見に苦しんだそうです。
「障害を持つ子どもたちに罪はない。そんな子どもたちが笑顔でいられるように、自分がかかわっていきたい」と思ったそうです。
最初は、一般の教員として教壇に立ったそうですが、そんな思いが強くなり、在職中に特別支援教員の免許を取得したそうです。志をしっかりと持った先生です。
その先生に、質問というか問題提起をしました。「日本でも、違いを認めるという考え方が、学校教育の中にも取り入れられるようになってきましたが、同じ学校の中に特別支援学級を作ることは、違いを認めるどころが、違う人はあっちと追いやっていることになっているのでは?」とあえて、特別支援学級の担任にぶつけます。
重度の障害があり、介助支援が必要な場合は、そう簡単にはいかないでしょうが、広範囲で、個人差が大きい発達障害の子どもたちをできる限り、普通クラスの中で、子ども同士のかかわり合いの中で、育てる仕組みが理想ではないかと、私は考えます。
ホワイトきゃんばすには、今まで、職員が対応できる範囲で、何人もの障害を持った園児がやってきました。子ども同士では、「少し変だ」と思いながらも、普通の関わりがそこにあります。そして、障害を持った園児は、確実に表情が明るくなったり、言葉が増えたり、運動能力がアップしたり、目に見える成長がありました。
よく、教育の専門家(評論家)が、「授業内容もわからないのに、1日中教室にいることがかわいそう」とか「変なヤツといじめにあう」と言うことがありますが、これは完全に、上から目線であり、障害を持った子どもは、苦痛どころか楽しい時間と思う場合の方が多いと感じています。
問題は、そういった環境を良いとしない、まわりの大人の偏見や差別なのかもしれません。
スマイルクラスの担任は、「今の段階では、クラスに、突然大きな声を出したり、席を立って歩き回ってしまう児童がいると、自分の子どもに悪影響だ。と考える保護者が多い」と言います。彼女は、まさか引き継ぎの場で、「特別支援学級を作らなくたって、みんなと同じクラスで過ごすことができないの?」なんて質問をされるとは思っていなかったでしょう。でも、これからは、保護者だけでなく、社会の認識が変わらねばならないことは、大いに意識されていました。
彼女のような先生が、今から10年先に、特別支援学級の担任でなく、すべてのクラスに何人かいる障害を持った児童をクラスを縦断して、見守るような役割をしてもらいたいと、「日本の障害児教育のあり方を変えてください」と勝手にエールを送った次第です。
私自身、園長として、あらためて「違いを理解する」ことをどう具体的に、保育に取り入れていくか、考えさせたれた時間でした。もちろん、「違い」とは、障害があるかないかだけではありません。「能力の違い」「年齢の違い」「男女の違い」「文化の違い」「価値観の違い」「金銭感覚の違い」まだまだあるでしょう。
「違い」を否定するのではなく、認めることは、言葉では簡単ですが行動では難しいものです。だからこそ、ずっと取り組んでいかねばならない課題と言えるのです。
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