埼玉県加須市の小学校で、田中正造さんの百一回忌法要が、先週行われたそうです。
1902年、田中正造さんや住民の反対運動で、足尾銅山鉱毒事件の被害を食い止めるために、この小学校がある地域に計画された遊水地の造成を阻止した経緯があり、住民らは、田中さんに感謝の気持ちを込めて、分骨をまつって墓を建てたそうです。
作家城山三郎さんの『「辛酸」田中正造と足尾鉱毒事件』を中学時代の国語の先生に感想文の課題とされ、強く印象に残っている人物でした。明治時代にさかのぼりますが、栃木県、群馬県の渡良瀬川周辺で起きた足尾銅山の公害事件の解決に奔走した人物が、田中正造さんです。
今でこそ、環境問題抜きにして、新たな開発などは考えられない時代となりましたし、自然破壊に対する反対運動も特別なことではありませんが、田中正造さんが活動したのは1890年代です。その時代背景を考えれば、とてつもない行動力です。
足尾銅山は、日本一のみならず、東アジア一の銅の産地でした。そして、時代は、日清、日露戦争のさなかです。国家としては、鉱山の操業を止めることなどできるわけもありません。ましてや、環境問題など考えることもなかったでしょう。
当時の日本は、乱暴な言い方をすれば、「おしん」に見られる過酷な労働で絹を生産し、その絹と銅を売って、軍艦と武器を手に入れ、アジアの隣国へ侵略し領土拡大を画策した時代です。
そんな時代に、田中正造さんは、「真の文明は、山を荒さず 川を荒さず 村を破らず 人を殺さざるべし」と言って、国へ問題提起の活動を続けたのです。
凄い人という言葉だけでは、表現できない人物です。
田中正造さんの百一回忌については、新聞記事で知ったのですが、もう一度、中学生の頃に読んだ、「辛酸」を大人になった今、読み返してみるとします。
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