「体罰」と「愛のムチ」

桜宮高校の体罰からの自殺の件をかわきりに、多くの学校で体罰の報道がなされ、女子柔道日本代表の園田監督も退任となりました。

 

園田監督は、会見の中で、信頼関係が成立したうえでの行為と自分は思っていたが、選手からはそう思われていなかったのは、自分の指導方が間違っていたと語りました。

 

あのロンドンオリンピックで、日本人のメダルラッシュに私たち国民は、大いに歓喜し、勇気や希望をもらい、一方、メダルを期待されながらそれをなし得なかった選手を心のどこかで非難してしまったのも事実です。

 

メダルを取れ!と言っておきながら、勝利至上主義の体罰はけしからんと矛盾したことを言ったりもします。

 

話がそれますが、会社や組織で発生する、セクハラやパワハラの問題を考えるとき、同じ行為でも「Aさんの場合はジョーク」で済まされるが「Bさんの場合は訴えられる」となるのと似ています。

 

王貞治や長嶋茂雄の鉄拳やアントニオ猪木の闘魂ビンタは「愛のムチ」としてありがたくいただくが、○○さんに殴られた場合は体罰になる・・・これも現実です。

 

今、100人に聞けば、全員「体罰はいけない」とこたえるに違いありません。でも「愛のムチ」は別だと考える人も多くいます。

 

「体罰」と「愛のムチ」の線引きは、一つのモノサシではできません。

 

また、勝利至上主義も、「一番」になって得ることの大きさを考えると、私は「絶対ダメ」とも思いません。

 

今回の件で、保護者の立場であったり、教員の立場であったり、指導者の立場であったり、それぞれの置かれた環境で、「体罰」「愛のムチ」を考えることが必要だと思います。

 

今後は、学校、教員と児童、生徒だけの狭い環境だけでは解決できないことが多くなります。当然、保護者や地域にオープンな教育環境を作っていくことが大事になるでしょう。

 

そして、一番大事なのは、私たち自身が「子どものためになるかどうか」という判断基準を持つことです。

 

金メダル至上主義の日本柔道界のため・・・甲子園出場回数を増やす学校の名誉ため・・・スポンサー企業の宣伝のため・・・そうでなくて、子どもたち自身のため、選手自身のためなら「愛のムチ」と判断できるかもしれません。

 

ジャイアンツに在籍していた桑田真澄さんは、PL高校野球部1年生のとき、先輩から意味無い体罰をたくさん受けてきたそうです。でも、そこから学ぶものは皆無だったので、自分が先輩になった時に、決して後輩に体罰を加えなかったそうです。今でも、彼の持論は「スポーツ指導に体罰は不要」です。

 

一方、自分がふがいないミスを犯したときに、監督に思いっきり殴られて目が覚め、そこから一流のになった選手もたくさんいます。

 

正直、体罰と愛のムチの線引きは、私の中でもきちんと整理されていません。

 

ホワイトきゃんばすでは、話をして理解できる子ども、個人差があるので大体3歳以上の子どもたちには、「やってはいけないこと、その理由」を話しますが、まだ言葉では理解できない子ども達へは、「先生が怒っている」ことを理解してもらうために、大きな声で怒るときもあるし、腕を掴む事もあるし、服の上からやさしく噛むこともあるし、髪を軽く引っぱることもあります。

 

でも、ホワイトきゃんばすでは「愛のムチ」と思っていても、保護者の信頼が得られていなければ、それは成立しませんので、保護者へもきちんと話をします。

 

園児同士のケンカでできた「噛みつき跡」「切り傷」も保護者へお詫びします。今まで、ほとんどのパパママが「子ども同士のことなので、お互いさまです」言っていただいていますが、保護者の本心を読み取らねばいけません。

 

あたり前ですが、すべてのことは「園児の成長のため」。保護者へ言いにくいことを話すときも「保護者のため」であるかどうか、この判断基準がぶれないように、今回の一連の事件で、あらためて思う次第です。